皆様、こんばんは
相変わらず、検索し続けている毎日です🎵
最終的にはちゃんと本だったり資料を読んだりする必要がありますが
遊び半分でやっておりますのでこのまま走り続けます
呉を検索していくと、ウィキに
日本に関する伝承というページを見つけました
以下、ウィキペディアより少し長めですが引用しておきます。
中国では早くから、日本は太伯の末裔だとする説があり、
たとえば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『晋書』東夷伝[4]、
『梁書』東夷伝[5]などには、倭について「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とある。
これらはきわめて簡潔な記事であるが、より詳しい記述が南宋の『通鑑前編』、
李氏朝鮮の『海東諸国紀』や『日東壮遊歌』等にある。
「呉の太伯の末裔説」が形成された下限(史料の初出)は、
『魏略』が成立した3世紀後期であるが、呉の滅亡は紀元前473年であるため、
時間的隔たりは甚だしい。
日本では、南北朝時代の禅僧の中巌円月が、日本を太伯の末裔だと論じたといわれている。
一方で北畠親房の『神皇正統記』応神天皇条は、
「異朝ノ一書」に「日本ハ呉ノ太伯ガ後也ト云」とあるのを批判しており、
室町時代の一条兼良も、『日本書紀纂疏』巻一で太伯末裔説を批判している。
イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』は、
神武天皇は太伯の2番目の弟である季歴(虞仲と季歴を混同したものか)の
第6代の子孫であるとしている。江戸時代に入ってからは、儒学者の林羅山が
『神武天皇論』で神武天皇の太伯末裔説を肯定した。
(引用終わり)
中国での伝承を記載する時って
自分の国に不利になるような内容でなければ
特に嘘を書く必要はなさそうな印象です。
呉が滅亡した紀元前473年で時間的隔たりがあるってことですが
呉って同じくウィキによれば何度も同じ国ができるんですよね。
(以下別のページ「呉」より引用。途中省略しています)
伝承としては古い「太伯の後」ですが
その時代にまた呉ができています。
その伝承を辿ったり利用したりすることもあるかな、と
伝承を自分たちのアイデンティティとして
利用するというか。。。
親しみをもたないと自称しないと思いますし
本当に言い伝えがあったのかもしれません。